祖母のこと
愛する
かけがえのない
ユニークなあなたへ
「明けましておめでとうございます」は、喪中になってしまったので、遠慮させていただきます。
まぁ、数年前から、明治時代に政府が強引に導入し、国民に押し付けたグレゴリオ暦による正月が、それほどめでたいとも、ありがたいとも思わなくなっているのですが。
年末年始は、例年と同じく、岡山の母の実家で過ごしました。
大晦日の夜、 97歳の祖母が体調を悪化させて入院し、年が明けた1月2日に旅立ちました。
絶対に寝たきりにはならないと決めていた人なので、亡くなる2日前まで自分の足で歩くことができたのは、幸いでした。
死の床で苦しんだ時間も、そんなに長くはありませんでした。
祖母は、若くして農家の長男であった祖父のもとへと嫁ぎ、戦中戦後の大変な時代を、身を粉にして働き、母の家を支えてきました。
僕の母を筆頭に、4人の子供たちを育て上げ、40歳代で初孫である僕が生まれると、以後50有余年にわたり、「おばあちゃん」として孫達の、さらには曾孫達の幸せを願いながら生きてきました。
祖母は大正、昭和、平成と激動の時代を生き抜きました。
とりわけ、その前半生においては、幾多の試練を乗り越えなければなりませんでした。
中でも、祖母にとって最も辛かったことは、最愛の息子である叔父が、寝たきりのまま生涯を送らなければならなかったことでしょう。
叔父は、女の子を3人授かった後に生まれた待望の男の子、跡取りになるはずの大切な息子でした。
だが、叔父は2歳のときに麻疹と風邪を併発し、そのときの高熱によって脳性麻痺を起こし、赤ん坊のような状態でその後の人生を送ることになりました。
「この子は20歳まで生きられないだろう」と医者に言われた叔父は、60歳近くまで生きました。
それは祖母譲りの強い体質と、祖母の心を込めた世話のおかげだったのかもしれません。
晩年の祖母は、6人の孫たちと8人の曾孫たちに囲まれて、穏やかで幸せな日々を楽しんだように思います。
いつも穏やかな微笑みを浮かべ、争いごとを好まず、辛抱強く、弱音を吐くことはありませんでした。
とても聡明であるにもかかわらず、いやむしろそうであるからこそ、豊かな才能や高い能力をひけらかすことをしない、控えめで謙虚な人でした。
僕の母は、長女で跡取り娘です。
その長男である僕が、とうとう結婚しなかったことは、家を守ることに生涯を捧げた祖母を深く悲しませただろうと思います。
そして、ゲイである僕は、日本の伝統的な家制度に対して、複雑な想いを抱いています。
でも、全て仕方のないことです。
祖母と僕は、それぞれ異なった運命を選んで、この世に生まれてきたのですから。
それでも僕は、祖母のことが大好きだし、尊敬しているのです。
祖母のことを感謝の気持ちとともに、記憶に留めたいと思います。
現代の日本を生きる僕たちは、祖母のように、与えられた境遇を静かに受け入れ、家を守り、家族を愛し、家族のために尽くし続けた、名もない過去の女性たちに多くを負っていると思うのです。
あなたが
いつもあなたらしく
幸せであることを祈っています