九州をうろうろする(その4~吉野ヶ里遺跡)
一昨日は立春。
伝統的な日本の暦では、寒さの峠を越したときを春の始まりとしたそうだ。
そして、昨日は旧暦の新年。
なんだかフレッシュな感じがしますね。
さて、1月の後半の週末から始めた九州方面への旅の続きについて書きたい。
既に書いたとおり、旅の5日目の火曜日は、1日かけて長崎の街を歩いて見て回った。
長崎は訪れてみたい場所が多く、1泊では足りないと思ったので2泊したが、それでも全然時間が足りなかった。
次に長崎に行くときは、3〜4日は滞在しようかな。
旅の6日目の水曜日、僕は佐賀県の吉野ヶ里遺跡を訪れることにした。
吉野ヶ里遺跡は代表的な弥生時代の遺跡の1つで、現在は「吉野ヶ里歴史公園」として整備され、遺跡の発掘調査に基づいて、この集落の最盛期であった弥生時代後期(紀元3世紀頃)の様子が復元されている。
歴史は好きなので、とても興味深かった。
1番印象に残ったのは、ここが「環濠集落」すなわち堀に囲まれた集落であったということだ。
堀だけではなく、木の柵によっても囲まれていたようだ。
つまり、ここに住んでいた人たちには外敵がいたのだ。
この時代、戦いがあったということだ。
弥生時代よりも前の縄文時代、人々は生態系と調和した狩猟や採集や漁労に基づく暮らしを、1万2000年以上にわたって営んだと言われている。
この時代、まだ争いはなく、人々は平等だったという。
しかし、弥生時代になり、稲作をはじめとする農業が本格的に普及するにつれて、人々の暮らしは大きく変化する。
貧富の差が生じ、それは身分制度になり、人間が人間を支配するようになる。
土地や水をめぐって、人々は争い、ときには殺し合うようになる。
吉野ヶ里遺跡からも、戦いの犠牲になったと思われる損傷した人骨が発見されているという。
弥生時代以降、日本列島に住む人々は、文明化の道を歩んでいくことになる。
前まで僕は、漠然と文明というものは良いものだと思っていた。
だが、あらゆるものごとには、ポジティブな面と同時にネガティブな面も存在する。
そして、ネガティブな面に目を向けるなら、文明化していくということは、物質的な豊かさや便利さと引き換えに、悪魔に魂を売ることなのかもしれない。
そんな気がした。
ちょっと重い話になったかな。
すみません。
あなたが
いつもあなたらしく
幸せでありますように
九州をうろうろする(その3〜長崎)
昨日は節分、そして今日は立春。
暦の上では春になりましたね。
さて、九州方面への旅の続きを書いてみたい。
1月後半の週末から始めた旅の 4日目の月曜日、僕は熊本から長崎へ行くことにした。
天王寺(大阪市)〜熊本間の復路の切符で JR鹿児島本線に乗り、鳥栖(佐賀県)で途中下車し、別途切符を買って、 JR長崎本線で西へと向かう。
昼過ぎに熊本を出発し、長崎に着いたのは、夜8時過ぎだった。
列車の中でネット検索して見つけた、長崎駅の近くの安めのホテルに泊まった。
翌朝、長崎の街をゆっくり見て回りたいと思ったので、同じホテルにもう1泊することにする。
大浦天主堂へと向かう道すがら、宿から歩いて3〜4分のところにある中野教会を訪れる。
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明治時代に裕福なフランス人女性の寄付によって建てられたもとの建物は、原爆投下の際に焼失し、現在の建物は、戦後になって再建されたもの。
鉄筋コンクリートだと思うが、白い外壁が美しい。
聖堂に入ってみると、ここが人々の暮らしと共にある祈りの家であることが感じられる。
大浦天主堂を目指して歩くのだが、気になるものがあると、つい寄り道をしてしまう。
長崎港に立ち寄り、海を眺めながら遊歩道を歩き回った後は、出島の跡地に立ち寄る。
出島といえば、日本が鎖国をしていた江戸時代、世界に開かれた唯一の窓だった場所だ。
当時のオランダ人の商館が再現されていて、面白かった。
大浦天主堂に着いたのは、午後遅く。
ここは本当に美しいかった。
大浦天主堂がその麓にある鍋冠山(なべかぶとやま)に登ってみることにした。
途中の眺めもなかなかのもの。
山頂の展望台からの眺めは、素晴らしかった。
長崎港が一望の下に見渡せる。
風邪をひくのを覚悟で、ここでしばらく粘ることにする。
ときどき長崎港から船の汽笛の音が聞こえる。
陽が沈んでしばらくしたとき、教会の鐘とお寺の梵鐘が共に鳴り渡った。
そして、日没と夕焼けを満喫した後は、長崎の夜景を楽しんだ。
本物はこの写真よりずっと綺麗だよ。
長崎は是非また訪れたい。
一日かけてうろうろしたけど、行きたかったところの一部しか行けなかったし。
では、この続きはまた近いうちに。
あなたが
いつもあなたらしく
幸せでありますように
九州をうろうろする(その2〜熊本)
大阪では今日も風が冷たかった。
だが、空は晴れわたり、光があふれていた。
春が近いなぁと思った。
さて、九州方面への旅の続きを書こう。
1月後半の週末から始めた旅の3日目の日曜日、熊本県長洲町の「的ばかい」という裸祭りに参加した後、熊本市内のスーパー銭湯で1泊した。
翌朝起きると、体のあちこちが打ち身と筋肉痛でものすごく痛い。
覚悟はしていたけれど、予想以上だった。
でも初めて訪れた熊本の街を、少しでも見て回りたい。
せめて熊本城は見ておきたい。
ということで、熊本城に向かった。
天守閣などの修復作業が続き、倒壊した建物や崩れた石垣など、震災の傷跡は今も生々しく残っていた。
観光客として訪れることで、ささやかでも復興支援になれば良いな。
「おもてなし武将隊」のお兄さんたちは、結構かっこよかった。
そして、城内のお店で飲んだ熊本産の赤ワインは、甘口でおいしかった。
この後、熊本駅に向かいながら、次の行き先はどこにしようかと考えた。
長崎に行くことにした。
この続きは、また近いうちに。
あなたが
いつもあなたらしく
幸せでありますように
九州をうろうろする(その1)
暦どおり寒い日が続きますが、皆さんお元気でしょうか?
しばらくブログをサボっていましたが、また書きたくなりました。
本当に気まぐれなので、すみません。
さて、1月の後半の週末に、僕は再び旅に出た。
今度は九州方面へ。
九州は、福岡と小倉くらいしか行ったことがない。
乗車賃が1割引になる往復割引を使った旅だ。
切符は天王寺(大阪市)から熊本まで買ったが、一応の目的地は、それより少し手前の熊本県長洲町。
在来線に乗り、車窓を流れていく瀬戸内海の景色を眺めたりしながら、2日間かけてたどり着いた。
この町にある四王子神社で行われる「的ばかい」という祭りに参加する。
この祭りは、災いを取り除くために行われる「破魔弓神事」で使われた藁で編んだ「的」を、氏子達が奪い合ったことに由来するという。
締め込み姿の男たちが、藁の的を奪い合い、藁を引きちぎる。
この藁は縁起もので、家に持ち帰ると福をもたらすという。
850年以上続いているというから、由緒正しいね。
昼前に神社を訪れた後、歩いてすぐのところにある集合場所の長洲町町民研修センターに行く。
裸祭りには何度か参加したことがあるものの、この祭りは初参加なので緊張していたが、地元の人たちはとても温かく迎えてくれた。
もともとこの祭りは、地元の人たちだけで行っていたが、若者の人口の減少により、地元民だけでは存続が難しくなったので、今では外部の人の参加も歓迎しているのだという。
今年は、全部で120名ほどの人が参加したらしい。
海苔巻きとオードブルの盛り合わせ等をご馳走になり、お酒も何杯もいただいた後、締め込みを締めてもらい、みんなで神社へと向かう。
仲良くなった地元の人に、僕の勇姿も写真に撮ってもらったが、それは恥ずかしいのでアップしません。あしからず。
四王子神社の境内で、藁の的の奪い合いが始まり、的を中心とした男たちの渦が、ゆっくりと進んでいく。
冷たい水が何度も浴びせられる。
日本酒を何杯も飲み、かなり出来上がった状態で、藁の的を奪い合い、押し合いへし合いしながら、「まーと、まーと、まーと」と言う掛け声をかけていると、意識がだんだんトランス状態に入っていく。
いつもより思考が少なくなり、アタマの活動が穏やかになる。
すると、僕がいつも行っている、様々な価値判断や意味付けや、慮りを超えて、世界はただ在るのだということ、僕はただここにいるのだということ、そして、それがとてつもなく素晴らしいことだということが、はっきり分かる。
この感覚は、しばらくの間続いた。
裸の男たちの渦は、やがて四王子神社の境内を出て、ゆっくりと進んでいき、遂に有明海にたどり着くと、万歳三唱をして祭りは終わる。
そして海のほとりの風呂屋に無料で入浴させてもらった後、その2階で直会(なおらい=祭りの後の宴会)となる。
昼よりさらに豪華な寿司や料理がふるまわれ、ビールもいっぱい飲ませてもらった。
もう至れり尽くせりだね。
ありがとうございます😊
夕暮れどきの有明海は、美しかった。
別れ際に地元の人たちが、「来年もぜひ来てくださいね」と言ってくれた。
来年も参加できればいいな。
この後、僕は再び列車に乗り、熊本へと向かった。
一泊2500円はありがたい。
長くなったので、この続きはまた近いうちに。
あなたが
いつもあなたらしく
幸せでありますように
再び旅に出る
愛する
かけがえのない
ユニークなあなたへ
今日からまた旅に出ることにした。
今回は熊本まで行く。
片道601kmを超えるので、往復割引が適用される。
往復で切符を買うと、旅客運賃(乗車券代)が一割安くなるのだ。
熊本までの往復運賃は、2万円ちょっとなので、2千数百円割引になるのは、ありがたい。
切符の有効期間が10日間で、途中下車し放題なのも、ありがたい。
今回も、もちろん在来線の旅です。
ちなみに差額の料金を払えば、特急や新幹線にも乗れます。
久しぶりに食レポを。
列車に乗る前に、天王寺で食べた今日の昼飯はこれ。
源兵衛天王寺あべの店のハラミ定食(908円)。
メガハイボール(90円)も頼みました。
ハラミは柔らかかった。
これだけ食べて飲んで、税込1000円ちょっとというのは、嬉しい😊
晩飯はこれ。
岡山駅で乗り換えるときの待ち時間に買った「季節のご飯とにぎわい弁当(冬)」(1000円)。
駅弁って、これまであまり積極的に食べてこなかったし、今回も腹の減り具合と列車の時間の関係でこれにしたけど、たまには良いかも。
旅をしているっていうムードが高まる。
駅弁と一緒に買った白ワインとお茶も合わせたら、今回の往復割引で今日の昼飯と晩飯がちょうど賄えた感じかな。
今夜は広島で一泊する。
計画性のない、行き当たりばったりの旅です。
楽しい〜
いつも
あなたがあなたらしく
幸せであることを祈っています
旅に出た
愛する
かけがえのない
ユニークなあなたへ
年明けに岡山の祖母が亡くなった。
葬儀も無事終わったので、僕は一旦大阪へと戻り、やはり旅に出ることにした。
年末に青春18切符を買っていた。
何年も前から、青春18切符で気ままな一人旅をしてみたかったのだが、あれこれ理由をつけて先延ばしにしてきた。
人は、嫌なことややりたくないことを先延ばしにすることがあるが、それ以上に、本当にやりたいことや好きなことを先延ばしにするように思う。
今回も、アタマの中で思考と呼ばれるおしゃべりが始まる。
「宿泊の予約、1日分しかとってないよね?あとの日はどうするの?宿が確保できなかったら、凍え死んじゃうよ……」
僕は恐ろしく気まぐれなので、一応の目的地の1日分しか宿は予約しなかった。
いけないいけない。
聞いてると、旅に出るのが面倒臭くなる。
アタマの中のおしゃべりは、本当は僕の声ではないのだ。
子供のころに親や先生に言われた言葉、マスコミや世間の常識や周りの人たちの声であって、僕の外側から来たもの。
近所のおばちゃん達のおしゃべりみたいなものだ。
アタマの中の声は放っておいて、僕は5日間の旅に出ることにした。
一応の目的地は、福島県の会津柳津という山あいの小さな門前町。
会津若松から、只見線という超弩級のローカル線で山の中を走ること1時間ほどのところにある。
二日間かけてたどり着いたが、途中で乗り継ぎに失敗して、着くのが大幅に遅れてしまった。
5年ぶりにこれに参加するつもりだった。
この町にある平安時代に創建された圓蔵寺という古刹で毎年行われる七日堂参りという裸祭りだ。
だが、3時間遅れて到着したので、今回は参加することはできなかったが、ゆっくり見物することはできた。
目の保養になったし、今回はこれで良かったのかもしれない。
翌朝、旅の3日目は只見線に乗り、会津地方のさらに山奥へと行くことにした。
暖冬のためか、途中通り過ぎた会津若松も、ここ会津柳津も、例年に比べると雪が少ない。
雪が見たい。
もっと雪深い景色が見たい。
そして、訪れたことがない土地に行ってみたい。
電車が進むにつれて、車窓から見える景色は雪深くなっていく。
2011年7月の新潟・福島豪雨で鉄橋が流され不通になっている区間は代行バスに乗り換え、昼前に只見町にたどり着いた。
ここは福島県の西端で、新潟県に接し、越後山脈に囲まれた日本有数の豪雪地帯。
暖冬であっても、深い雪に閉ざされ、一面の銀世界だ。
深い雪の中を夢中で歩きまわった。
翌日、旅の4日目は、東海道線を西へと向かう途中で下車して、万葉集にも出てくる田子の浦から夕陽に映える富士山を眺めた。
この日の朝、米原駅(滋賀県)で電車を乗り換えるときに、「北陸本線」という表示を見て、日本海を見たくなったからだ。
敦賀港は裏寂れた北国の漁港だった。
港の一角に江戸時代に作られた石造りの灯籠があった。
夜毎この灯籠に明かりが灯されていた頃、この港は、各地の産物を積んだ北前船で賑わっていたはずだ。
港のすぐそばの店で、地酒を飲みながら天然物の刺身を食べた。
あじ、ひらまさ、しめ鯖…どれも美味しい。
なかでも寒ブリが最高だった。
口の中でふわっと溶けていく。
青春18切符は、1枚で1人なら5日間、JRの普通列車が乗り放題になるし、何度でも途中下車ができる。
友達5人で1日の旅行を楽しむという使い方もできる。
年齢制限はありません。
50過ぎの俺でも使えます。
チケットショップで買うと、定価( 11,850円)より数百円安く買えるし、使い残し分を買い取ってもらえる場合もあるよ。
いつも
あなたがあなたらしく
幸せであることを祈っています
祖母のこと
愛する
かけがえのない
ユニークなあなたへ
「明けましておめでとうございます」は、喪中になってしまったので、遠慮させていただきます。
まぁ、数年前から、明治時代に政府が強引に導入し、国民に押し付けたグレゴリオ暦による正月が、それほどめでたいとも、ありがたいとも思わなくなっているのですが。
年末年始は、例年と同じく、岡山の母の実家で過ごしました。
大晦日の夜、 97歳の祖母が体調を悪化させて入院し、年が明けた1月2日に旅立ちました。
絶対に寝たきりにはならないと決めていた人なので、亡くなる2日前まで自分の足で歩くことができたのは、幸いでした。
死の床で苦しんだ時間も、そんなに長くはありませんでした。
祖母は、若くして農家の長男であった祖父のもとへと嫁ぎ、戦中戦後の大変な時代を、身を粉にして働き、母の家を支えてきました。
僕の母を筆頭に、4人の子供たちを育て上げ、40歳代で初孫である僕が生まれると、以後50有余年にわたり、「おばあちゃん」として孫達の、さらには曾孫達の幸せを願いながら生きてきました。
祖母は大正、昭和、平成と激動の時代を生き抜きました。
とりわけ、その前半生においては、幾多の試練を乗り越えなければなりませんでした。
中でも、祖母にとって最も辛かったことは、最愛の息子である叔父が、寝たきりのまま生涯を送らなければならなかったことでしょう。
叔父は、女の子を3人授かった後に生まれた待望の男の子、跡取りになるはずの大切な息子でした。
だが、叔父は2歳のときに麻疹と風邪を併発し、そのときの高熱によって脳性麻痺を起こし、赤ん坊のような状態でその後の人生を送ることになりました。
「この子は20歳まで生きられないだろう」と医者に言われた叔父は、60歳近くまで生きました。
それは祖母譲りの強い体質と、祖母の心を込めた世話のおかげだったのかもしれません。
晩年の祖母は、6人の孫たちと8人の曾孫たちに囲まれて、穏やかで幸せな日々を楽しんだように思います。
いつも穏やかな微笑みを浮かべ、争いごとを好まず、辛抱強く、弱音を吐くことはありませんでした。
とても聡明であるにもかかわらず、いやむしろそうであるからこそ、豊かな才能や高い能力をひけらかすことをしない、控えめで謙虚な人でした。
僕の母は、長女で跡取り娘です。
その長男である僕が、とうとう結婚しなかったことは、家を守ることに生涯を捧げた祖母を深く悲しませただろうと思います。
そして、ゲイである僕は、日本の伝統的な家制度に対して、複雑な想いを抱いています。
でも、全て仕方のないことです。
祖母と僕は、それぞれ異なった運命を選んで、この世に生まれてきたのですから。
それでも僕は、祖母のことが大好きだし、尊敬しているのです。
祖母のことを感謝の気持ちとともに、記憶に留めたいと思います。
現代の日本を生きる僕たちは、祖母のように、与えられた境遇を静かに受け入れ、家を守り、家族を愛し、家族のために尽くし続けた、名もない過去の女性たちに多くを負っていると思うのです。
あなたが
いつもあなたらしく
幸せであることを祈っています