嘘のクリスマス?
愛する
かけがえのない
ユニークなあなたへ
僕のメンターの1人であるYさんは、この季節になると、この言葉を口にする。
「嘘のクリスマス」
少々へそまがりなところがあるYさんは、「幻に過ぎない世間に踊らされるのは、馬鹿なことだよ」というメッセージを込めてこの言葉を使う。
確かに、キリスト教徒など少数しかいない日本なのに、ハロウィンのバカ騒ぎが終わると、今度はクリスマス商戦が始まる。
「あれを買え」
「これも買え」
「聖夜は恋人と豪華なディナーへ」
金を使えもっと使えとばかりに、
マスメディアが
広告が
僕たちを洗脳しようとする。
あ〜、うんざり。
日本のこんな商業主義にまみれたクリスマスに対して、僕も嫌悪感を抱いてきた。
そもそも、12月25日はイエス・キリストの誕生日ではないようだ。
聖書のどこにも、彼がいつ生まれたのかは書かれていない。
ただ、新約聖書の福音書(イエスの生涯を記した書物)に、彼が生まれたときに野で羊の番をしていた羊飼いたちがやって来たことが書かれている。
パレスチナで羊の放牧が行われるのは、もっと暖かな4月から9月にかけての時期なので、12月に彼が生まれたというのはありえないことになる。
にもかかわらず、12月25日がイエス・キリストの生まれた日と定められたのは、一説によると、キリスト教と同時期にローマ帝国各地に広がり、ライバルであったミトラ教(ペルシャ起源の太陽神を崇拝する宗教で、キリスト教と共通点も多かった)の冬至の祭りを取り入れたからだという。
競争に勝つために、ライバルの持ちネタをパクるのは、よくある話だが、もしそうなら、クリスマスは布教のための方便……えっ、嘘も方便というやつ?
さらに言えば、20世紀以降、聖書についての学問的研究が進んだ結果、現代の新約聖書学者の多くは、福音書に書かれたイエス・キリストの生誕についてのエピソードが事実であることを疑問視している。
やっぱりクリスマスは嘘なのか…
だが、そう断言することに僕はためらいを覚えてしまう。
そして、思い出すのは、はるか昔に読んだカトリック作家・遠藤周作のエッセイのことだ。
「だがイエスの生誕日が曖昧でも、べトレヘムで生まれたのではなくても、私は彼の生まれた場所、生まれた日を決めざるをえなかった人間の願いのほうに心ひかれるのだ。
長い長い歴史の間、人間はやっぱり救われたかったのだ。
自分たちの心を洗いきよめてくれる救世主がほしかったのだ。
彼が生まれた日と場所を決めたかったのだ。
だからこそ年に一度、あの冬の雪の降る季節の一日をクリスマスにして、せめてその日だけは自分たちの心を洗いきよめようと大事に伝えてきたのである」
「イエスがべトレヘムで生まれたことは、事実ではないかもしれぬ。
星に教えられてそのイエスをべトレヘムまで探しに行った東方の博士たちの物語は勿論、伝説であろう。
しかし、人間をきよめる存在を、つまり人生の星を求める博士たちの物語を創らざるをえなかった心のほうが、私には真実である。真実は事実よりもっと高いのだ」
遠藤も言うとおり、福音書のイエス生誕のエピソードは、事実ではなく神話だろうが、人間のイマジネーションが生み出した、最も美しい物語の一つだと僕も思う。
もっとも、そう思うのは、僕も一応カトリック教徒だからかもしれないが。
久しぶりに遠藤のエッセイを読み返してみて、僕も書きたくなったことがある。
クリスマスは、キリスト教を信じていない人たちにとっても、意味があるし、あって良いものだと思う。
人間はパンだけによって生きるわけではない。
人間が生きるためには、イマジネーションが必要だ。
そして、クリスマスはイマジネーションの宝庫ではないか。
例えば、サンタクロース。
クリスマスと言えば、誰もが思い出すだろう。
サンタさんのプレゼントを心待ちにした思い出のある人は、本当に幸せな子供時代を送ったとは言えないだろうか。
偉大な芸術家や科学者の中には、成長して分別や常識というものを知るようになった後も、心の中にサンタクロースの居場所を持ち続けた人たちが、少なからずいたのではないか。
想像力(イマジネーション)は、創造性という資質を成り立たせるために、最も必要な能力ではないのか。
だから思うのだ。
あの商業主義にまみれた大騒ぎとは関わり合いになりたくないが、クリスマスはあっても良いと。
クリスマスは必要なのだと。
最後まで読んでくれてありがとう。
いつもあなたが
自分らしく
幸せであることを祈っています。